叙情の風景~”ハチのムサシ”は本当に安保闘争の鎮魂歌なのか?~

 いやはや、アナクロもエエとこやな

 こんな大昔にはやったモン、若いヤツには何の事やら、わからんのちゃうか?

画像

平田隆夫とセルスターズの1972年のヒット曲
【ハチのムサシは死んだのさ】
(画像は2004のCD”ゴールデン☆ベスト”)

内田良平 作詞
むろふしチコ 補作詞
平田隆夫 作曲


チュチュチュチュルチュルルチュチュチュチュル
チュルルチュチュチュチュチュ


ハチのムサシは 死んだのさ
畑の日だまり 土の上
遠い山奥 麦の穂が
キラキラゆれてる 午後でした
ハチのムサシは 向こう見ず
真赤に燃えてるお日様に
試合をいどんで 負けたのさ
焼かれて落ちて 死んだのさ
ハチのムサシは 死んだのさ
お日様仰いで 死んだのさ
高い青空 麦畑
いつもと変わらぬ 午後でした


チュチュチュチュチュチュチュチュ
チュチュチュチュルチュチュチュチュ


チュチュチュチュルチュルルチュチュチュチュル
チュルルチュチュチュチュチュ


ハチのムサシは 死んだのさ
夢を見ながら 死んだのさ
遠い昔の 恋の夢
ひとりぼっちで 死んだのさ
ハチのムサシは 向こう見ず
お日様めがけて剣を抜き
たたかいやぶれて 死んだのさ
焼かれて落ちて 死んだのさ
ハチのムサシは 死んだのさ
たしかにムサシは 死んだのさ
やがて日は落ち 夕暮れに
真赤な夕日が 燃えていた




 この古い曲が、別に気にかかっとったちうワケやないんやけど、ちょっち思い立って検索してみたら、皆さん結構色んな事書いてはるようやから、こっちもつい大昔のカンヅメの蓋を開けてみようかっちう気になったんやけど、何所まで膨らませられるかの…この歌詞は



 皆さん、この曲の歌詞については、大体【イーカロスの失墜】【60年代学生運動の終焉・鎮魂】ちうイメージで語っとうみたいやな。

 確かにヒットした時期が1972年やし、当時そういう受け取られ方をしとったちう事は自然な事やろな。

 そもそも”はやり歌”っちうモンの実体はその時どう受け取られたかちう事自体や思うし、最大公約数的な印象の方が実体で、歌詞が本来持っている内容なんか、はっきり言って二次的なモンやっちうてもエエ位や。

 結構、はやり歌の作者が『そんなつもりやおへん!』とか息巻いとう場合があったりすんねんけど、世間様は普通そんな事に関心あらへんがな。


 はやりの期間が過ぎてもうて、時代の印象の中に封じ込められたら、もうはやり歌の使命は終わりや。
 あとはノスタルジーに濡れたオッサン・オバハン→爺さん・婆さんの思い出の中で余生を過ごすだけやがな。


 でも、厚く積もった”同時代”っちうホコリをはたいてみたら、意外とその時気づかんかった意味が歌詞の中に隠れてたっちう事も、あるんやないかな。


 ちうわけで、こっから先、我輩流の歌詞の拡充解釈で、ちょっちトライしてみようと思うねん


 我輩が検索した限りの事やねんけど、どっかのサイトでは『歌詞は意味不明で、ハチのムサシが太陽に挑んで死んだという事だけ歌っている』とか書いとったな。

『シュールな歌詞』いうてるとこも、結構あったで。


 我輩が思うに『シュール』っちうのは、ちょっち変な受け取り方やと思うで。

 この歌詞のハチは、単に擬人化されとうだけやし、お話は何の疑問も無く寓話や。

 そら、ディズニーの世界観がシュールやいうたら、確かにシュールやけど(ネズミのペットがや!)一応シュルレアリスムとは別の括りっちう事になっとるやろ?


 上の文中で”どっかのサイト”ちう失礼な言い方で流してもうたサイトやけど、実際はここのお人は、かなりユニークな仕方でこの流行歌を【体験】しとって、この人のいう『意味不明』は、別に擬人化とか寓意がわからんからっちうハナシとはちゃうようなんや。

 ちょっち面白い、その人の体験を、記事から引用してみるで。

エロ漫画家の日記

エントリ”ハチのムサシは死んだのさ (2006/09/15)”より引用



略~ 小学生のころ、多分海水浴か何かに家族ででかけた帰り、僕は疲れて車の中で眠くなってきていた。父が「寝ていていいから」と言うので椅子を倒してうとうとしていた。
窓の外は古い建物が並んでいて、まるで京都の町家のようだった。そして西日がフロントガラスからギラギラと射し込み周囲の風景をシルエットにしていた。そこでカーラジオから流れてきたのがこの歌である。

ぼんやりとした僕の頭の中に、鮮やかに風景が映し出された。何度もなんども太陽に挑むハチのムサシ。ついに全天を覆わんばかりの太陽に焼かれ、麦畑に落下する。麦の穂の間から恐ろしく青く、恐ろしく明るい空を見上げてムサシは死ぬのだ。場所は遠すぎて誰もたどり着けない山奥である。誰もいない山奥なのになぜか麦畑が広がっている。人間ではない何者かによる麦畑。そこには太陽とハチのムサシしか存在しないのだ。誰も看取るもののない死。そして太陽は傲慢なままに沈んでいく。夕暮れに真っ赤に燃えて…。僕は世界の終わりを幻視した ~略


 このお人が『歌詞ははっきり言って意味不明。ハチのムサシが太陽に挑戦して死んだという事だけ歌っている。』ちうて書くワケは、背景にこういう妙な体験を持っとうからで、その印象が、この歌詞を『単なる擬人化された寓話』と受け取ることを許さんのやと、我輩は解釈したいんや。

 ”誰もいない山奥なのになぜか麦畑が広がっている。人間ではない何者かによる麦畑。そこには太陽とハチのムサシしか存在しないのだ。”ちうイメージやったら、コレは掛け値なしに”シュールレアリスティック”なイメージとしかいえんやろ。


 アニメ監督の宮崎駿はんが昔描いた本シュナの旅の中に『人のいない神人の土地に、黄金の耕地がある』っちう奇怪なイメージが出てくんのやけど、ことによったら、そのイメージと”エロ漫画家(ニックネーム)”はん(後藤寿庵っちうお名前らしいで)の見た『人間ではない何者かによる麦畑』は、かなり近いとこから来とうんちゃうんかな?もしかして。


 年代からいうてエロ漫画家(後藤寿庵)はん(公表年齢41歳)が、宮崎はんの本(シュナの旅・1983年6月初版)を事前に見とうワケあらへんから、基本的にはそれぞれに、独自に見出した”ヴィジョン”ちう事になるわな。

 俳句で”麦の秋”いうたら、夏の季語なんやけど、その理由は、小麦の収穫期が七月ごろの盛夏にあたるからっちうのは、知っとるやろか?
 大麦とか、ライ麦はもちっと早くて五月位や。

『ハチのムサシ』の麦畑は、太陽輝く盛夏の、黄金の麦畑っちうとこが勘どころや。
 水田なら普通、夏の穂はまだ青々としとるはずや。(早場米の産地では、そうとは限らんけど)

 日本人は、米が銭の代わりをしとった期間が長かったこともあって、どっこにでも水田を作りたがる国民性があると思うねんけど、それに比して麦だの蕎麦だのは、陸稲も生えん痩せた山間部の作物やった、っちうことと”ハチのムサシの麦畑”のイメージは、ものごっつうシンクロしとうと我輩は思うわけやな。

 西洋なら、”黄金に輝く小麦畑”のイメージは、偉大な祖霊と重なっとる聖なる土地でもあるワケやけど、我が日本国では、しょぼい山の中、荒地、寒村、貧困のイメージを背負わざるを得んのや。


 日本の小麦イメージは、西洋なら”ライ麦畑”のイメージに近いやろか。
 荒地の作物、貧乏人の黒いパン、麦角(キノコ)の毒が入りやすい…ちう、貧しい寒村の雑穀イメージや。

 サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』もそうした差別イメージと、収穫期の早さのもたらす春のイメージをふんまえて、タイトルをつけとるんやないかと我輩は想像するで。


『ハチのムサシ』の作詞者(俳優・内田良平)は、おそらく『麦の秋』っちう季語は知っとったと思うんやけど、歌詞が”麦の穂がキラキラゆれてる”とか”真っ赤に燃えてるお日様”とか表現しとう事で、強烈な夏の太陽光や、日差しの暑さはそれだけで感じ取れるんやないか?

 さびれた夏の山村の麦畑から、猛烈に輝く太陽目がけて切りかかっていく”ハチのムサシ”の中に、絶望的な貧しさと、そこからくる狂気じみた上昇志向・嫉妬心・怒りなんかを見出す事は、さしてムズカシイ事やあらへんで。


 そういうふうにこの歌詞を眺めた時に『ハチのムサシが学生運動の闘士たちで、太陽は現体制もしくは、あり得ないような高い理想』を示しとうっちう受け取りかたが、果たして妥当なモンかどうか、我輩はかなり疑問に思うんやけど、どうなんやろか?



”ハチのムサシっちうからには『宮本武蔵』のイメージを拝借しとうのやろけど、やっぱし、それは『五輪書』を書いた歴史上の宮本武蔵とか、昔の講談・浄瑠璃の宮本武蔵やなく、吉川英治の小説『宮本武蔵』の宮本武蔵なんやろな。

ハチのムサシは 死んだのさ
夢を見ながら 死んだのさ
遠い昔の 恋の夢
ひとりぼっちで 死んだのさ


 いうてる上の歌詞は、吉川英治の小説に出とうキャラ『お通』のイメージを引いとう気がすんねん。
 ちう事は、吉川原作のゾロゾロある映画・TVドラマのどれかが、作詞者の頭にあったのかもしれんな。
 作詞の内田良平は映画俳優やし。


 あんまし、『宮本武蔵』に言及しとうサイトは見つからんかったな。
 イカロス神話には、殆んどのとこが触れてたんやけど、何でやろな?

 工人ダイダロスの息子イカロスのお話は”ダイダロス神話の一挿話”っちう位置づけがあって、その話の中には”クレタ島のミノタウロス””テーセウスの英雄神話”が織り込まれとうのが、スタンダードな形や。

 この一連の神話には『アリアドネの糸』とか『ポセイドンの牡牛』とか『クレタ島の迷宮』とか、有名なモチーフが満載で、たいそう魅力的なモンなんやけど、イカロスのお話は、結構全体の文脈から切り離されて流通しとう事が多いみたいやで。



 ~工人ダイダロスの作った翼で、迷宮を脱出した父ダイダロスと息子イカロスだったが、父の忠告を聞かず、有頂天で天高く舞い上がったイカロスは、翼を固めてあったロウが太陽の熱で溶けて、海中へと失墜していった~


 まあ、若モンの跳ね上がりを面白う思わん大人が、したり顔で説教するのに使うたりとか、『技術文明の驕り』の象徴として、この部分を取り上げるのが、昔流行ったりしたんやろな。


 似た使われ方をよくされる話に『パエトン』の神話があるけど、これも跳ね上がった若造が、身の程知らずに『太陽の戦車』に乗り込んだ挙句に、太陽を暴走させてゼウスに打ち落とされるっちうお話や。


 この身の程知らずの比喩で使われる事多い神話イメージと”ハチのムサシ”の相性はバツグンなワケや。


”ハチのムサシは 向こう見ず
真赤に燃えてるお日様に
試合をいどんで 負けたのさ
焼かれて落ちて 死んだのさ”



”ハチのムサシは 向こう見ず
お日様めがけて剣を抜き
たたかいやぶれて 死んだのさ
焼かれて落ちて 死んだのさ”


 ハチやから羽生えとうし、”焼かれて、墜ちて”死んでもうてるし、『向こう見ず』やからな。


 このラインで見たら『跳ね上がりの学生運動は、自らの思いあがりで消沈してしまいました』ちうハナシになってしまいそうやで~^^;


 実際、1972年の状況では、そないな無力感とか、祭の後の寂寞感とか、後悔みたいなモンが若い連中の中に、あったのかもわからんな。


 でも、我輩にはこのイメージ連鎖の中に、何か別の光景も見えてしまうんや。

 太陽・戦い・飛行・思いあがり・墜落死・焼け死ぬ・敗北


 このときの若モンはまだ生まれて無かったかしらんけど、太平洋戦争が終結したのが1945年8月や。

 27年ちう時間は、若い連中にとっては大昔の生まれる前やろけど、歴史時間からいったら、昨日の今日みたいなもんやで。

 太陽神の孫の現人神と、日章旗、焼夷弾の絨毯爆撃、原子爆弾、軍の暴走、戦闘機、バンザイ・アタック…

 我輩には”ハチのムサシ”のイメージは、同時代を飛び越えて、27年前の時代に遡っとう気がすんねん。


 いくら『知らん』っちうても、当時の若いモンは紛れも無く【終戦直後】っちう時代で育ったんやし、大人たちはモロ戦中・戦前生まれや。

 いくら忘れたフリしたところで、染み付いとう事実は消されへんで~。


 我輩が最初の方で描いといた”山村の麦畑”の風景をちょっち思い出してみてほしいんや。


 さびれた夏の山村の麦畑から、猛烈に輝く太陽目がけて切りかかっていく”ハチのムサシ”の中に、絶望的な貧しさと、そこからくる狂気じみた上昇志向・嫉妬心・怒りなんかを見出す事は、さしてムズカシイ事やあらへんで。



 この歌が鎮魂歌やとしたら、同時代の出来事よりももっと前に、おびただしい遺骸の山を築いた時代のたましい、もしくは、狂気じみた身振りで荒れ狂う、戦中に生きた”恐ろしい霊魂”っちうか”荒御霊(あらみたま)”への鎮魂の歌と言った方が、ふさわしいんやないやろか?

 ことによったら、60年代末の学生運動家の中に、この”荒御霊”の燃え残りのカスかなんかがくすぶっとって、それがこの奇妙な1972年のヒット歌謡の中に、二重写しみたいになって見えたんかもしらんで。



 ここまでのハナシで、”黄金色の麦畑”の貧困イメージを、ちょっち強調しすぎたキライがあるから、ここで”黄金の穀物畑”の聖性について示しとうイメージを幾つか提出しておく事にしようか。


 上に引いといた、宮崎駿はんの【シュナの旅】に出て来る”神人の麦畑”なんやけど、そのイメージは、後の【風の谷のナウシカ】マンガ版の”シュワの墓所”周辺の【ヒドラの農村】に引き継がれとうし、それ以前の、映画版における”その者青き衣をまといて金色の野に降り立つべし”ちうて言いながら、さながら聖画みたいに蘇える”王蟲の光る草原”の場面とかにもこっそりと同梱されとう印象や。

 映画【フィールド・オブ・ドリームス】(小説・シューレス・ジョー)で、アイオワのトウモロコシ畑から出てくる”シューレス”ジョー・ジャクソン他の、亡くなった野球選手の姿は、映画を見た人なら忘れんやろけど、トウモロコシもまた北米・南米では”神の穀物”や。

 黄金のトウモロコシ畑は、死者の国へいたる聖なる土地で、映画版では別人なんやけど、原作ではJ・Dサリンジャーが、【祖霊】に導かれてトウモロコシ畑へ入っていく事になっとうんやで。

 ”ナウシカ”でも”シューレス・ジョー”でも、黄金の畑が【死者が蘇える場所】やっちうのは、強調して、しすぎるっちう事はないと思うで!


 農業国ではたいがい、穀神祖霊は混同されとって、正月の鏡餅とか、門松もそうなんやけど、あれは祖先の霊魂の仮の宿なんやで。

 昔の門松は、単に俵に竹を刺しただけのモンやったらしいんやけど、竹は『依代』いうて、現世とあの世を媒介するちうて考えられてたモンやねん。

 稲の穀神=祖霊は、収穫期は田んぼにおって、その他の時は山におリ、盆と正月には家々にやってくるっちうサイクルを柳田國男なんかは想定しとったようや。

 柳田はことに、を異界、聖なる祖先の土地、ヌーメン的な場所と考えていたようやな。


 そういう場所で”ハチのムサシ”が死んでいくっちうふうに考えるなら、上に引用した【エロ漫画家(後藤寿庵)はんのヴィジョン】も、根拠があるように思えて来んかや?

 全天を覆わんばかりの太陽””恐ろしく青く、恐ろしく明るい空””遠すぎて誰もたどり着けない山奥こうしたイメージのもたらす印象が僕は世界の終わりを幻視したちうモンなんやから、その場所が、この世ならぬ聖なる場所を示しとうのは、明白やないか?


 最後に、この流行歌の中で、何度も何度も【死んだ、死んだ】いうて連呼(11回!)されとうけど、穀物畑の中で死ぬいう事の、もっとも有名な比喩を引いて、〆にしとこうかの。

一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、
死なば多くの実を結ぶべし


ヨハネによる福音書 第12章24節



 ご冥福を祈っとうで!

 ほな。





補遺



 上に記してあるのが、2007/01/06公開時の全文であり、その後改訂はしていない。

 しかし、本文中、説明なしに通り過ぎてしまった部分があり、今回その部分を補填する事にした。
 blogのエントリで、公開後に大幅加筆をする事など普通はあまり無いように思うが、私は自身の公開したものに一定の責任があると考え、ここに補遺を置くものである。
 長すぎる記事は、ウェブページにはふさわしくなく、不親切であるとの考え方もあるようだが、ご容赦願いたい。

 この歌詞が歌っているハチのイメージは、おそらく蜜蜂であろう。

 蜜蜂は、蟻とともに”社会を単位として生存する生物”の代表として、『働きバチ(アリ)』という、ややさげすみのまじった慣用句となり、社会の歯車、会社人間、エコノミック・アニマル他、組織の論理の中で個性を失い、判断もしようとしない人間をあらわすイメージに使われやすい生物といえるだろう。

 その”働きバチ”の孤独な戦いに、後のおよげ!たいやきくんに見られるような、束縛からの逸脱に対する憧れがあるのかどうか、見てみる必要がある。

 太陽を秩序の頂点と考えるなら、ハチの反乱は『革命』であるといえるが、本文で述べたように太平洋戦争のイメージが影を落としていると考えるなら、太陽は【天上人】(天皇・ミカド)そのひとでなければならない。

 大勢は”安保闘争の鎮魂歌”という見方で納得しているようであり、そういう文脈では、太陽は時の政府、米国、大学などの公的権威の象徴であって、戦士となった働きバチをうたう流行歌は、敗者の無念をセンチメンタルに歌い上げる、平家物語から連綿と続く日本の伝統歌謡の系譜に当てはまるという事になるだろう。


 だが、私はこの見方をとりたくない。

 そういうベクトルが無いといっているのではないが、太陽や、麦畑や、イーカロスの神話はあまりにもあからさまなシンボルであり、特に”太陽”という最も基本的、古典的な巨大な単位を、日本人の心象において、天皇から切り離して考える事は出来ないのである。

 私が”荒御霊(あらみたま)”という言葉を使う時、それは多分に心理学的な意味で使っている。
 集団的な熱狂、ファシズムをもたらす非理性の精神で、それはひとたび表面に表われれば、積み重ねたどんな文化も文明も、理性も教育も役に立たないほどの力で荒れ狂う『社会的な精神病』である、というほどの意味で使っているのである。

 そうした状況、つまり意識的な統制を超えた心理的ドミナント(優性形質)が、人間を脅かすとき、決まって起こるのが、”転移”といって、無意識の心理が他者の上に投影される現象である。

 心理的ドミナントを構成しているのは、多くは伝統的な『神の像』である。

 天皇が神であるのに理由はいらず、その本質的な根拠は、”呪術的なカリスマ”を自明の理としているような、集団的な共感覚、心理状態の側にある。

 熱狂を巻き起こすカリスマを生み出しているのは、呪術的なカリスマ自身の力ではなく、大衆自身の暗い非理性が、単なる人間に幻を投影する仕組みの方なのである。



 熱狂的に”神のごとき者”が奉られるとき、自動的に”最も醜い者”が敵対者として現われるが、それは熱狂的な攻撃性を持つ精神が生み出した幻像であり、神のごときカリスマを生み出したのと同じ精神が転移したものである。

 つまり、熱狂的な支持を受けるものと、それと同様に熱狂的に憎まれるものは、同じ精神状態が別々の対象に転移したものなのだ。

 この過程は自動的に生じ、集団が暴走を始めようとするとき、瞬く間に世界を神と悪魔の二元論のパッチワークに染め上げてしまうのである。


 ゆえに、”神のごとき者”と”最も醜い者”は、いつでも背景ではつながっており、そのつながりは、シンボルの形で時にあからさまに表現される事があるのである。


 こうした見方が私の視点の背景にあったので、私は【太陽に挑むハチのムサシ】を、すぐさま『太陽神の息子達』の暴虐と結びつける、シンボルの解釈を得たのである。

 彼の神は、彼の敵とまったく同じ『元型的な像』である。

 そのイメージこそが、私に【ハチのムサシ】と太平洋戦争を結びつけさせた”元凶”なのだが、果たして私以外の人はこの思いつきをどう思うだろうか。

 この補遺で、私は【転移】【心理的ドミナント】【元型】などという”分析心理学(ユング心理学)”の用語を、ろくな説明もなしに使ってしまったが、非常にわかり難い話になり、反省している。

 しかし、そうした自分自身にある背景の知識を明らかにしていかないと、私の見方は何に対しても根拠の無い、思いつきの羅列としてしか受け入れられないのではないかと思うのである。

 もう一つ、私が書いておきたかったイメージ上の類似する事態がある。

 それは、黄金色に輝く彼岸のイメージと臨死体験および、宗教心理学で言う至高体験(光の体験)の類似である。

 私は、死後生について、特に信仰があるわけではなく、臨死体験や宗教的トランス状態の【至高体験】などの幻覚体験を、そのまま事実として捉えるような神秘主義者とは、かかわり合いになりたくないと思っている。

 しかし、そういった一連の幻覚体験が存在するのは、明らかに事実である。
 中には、【臨死体験】における幻覚は『臨死状態において特有であり、他には存在しない』などと考える者もいるようだが、そういった幻覚体験は、宗教心理以外でも、幻覚剤による幻覚体験などにおいても経験されうるような、さほど特殊とは言えない、むしろ典型的といっていい内容をもっているのである。

 いわゆる『お花畑』に死んだ自分が居て、亡くなった親類が川の向こうでメッセージをよこすといった、フォークロア的なイメージにも菜の花のような強烈な黄色い『光の輝き』が写しこまれているようであるし、浄土宗の『来迎図』でも、死者を迎えに来るのは『阿弥陀如来』アミターバすなわち光(無量光)であり、その眷属である。

 私には、黄金に輝き、祖先の霊・彼岸と関係付けられた穀物畑のイメージは、あからさまに、そうした一連の臨死体験的イメージと結びついていると考えている。

 だから、上に引いておいた『エロ漫画家氏』の、年少時の奇妙な”音楽体験”は、私には一見して”元型的なヴィジョン”に見えるのであり、一種の宗教体験・宗教的ヴィジョンであると思うのである。

 そして、この歌の作詞者(俳優・内田良平)も、このヴィジョンを、一種の宗教体験のように経験したのではないかと想像するのである。

 もっとも、詩人は、激烈な感情表現を、ごくさめた精神状態で表現したりできる能力があるから、作詞者がそのときトランス状態で、異常な高揚感のなかでヴィジョンを経験したとは限らない。
 しかし、たといそうであっても、この歌の歌詞が提出している、死と光の体験は、人類が歴史的に蓄積してきた精神の精華であると言って、間違いにはならないと私は思うのである。

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この記事へのコメント

さよちん
2010年05月08日 02:55
面白そうな話題提供に惹かれながらも全部読みきれない内に時間がなくなっちゃいました。後でじっくり、ゆっくり読み返します。こんなに長い文章書いて、ちゃんと睡眠とってますかぁ?寝なきゃだめですよぉ~
RSSから開いて“〆(^∇゜*)カキコ♪してま~す!!
平成馬券師(地)
2010年05月08日 02:55
さよちんへ

長すぎました(;一_一)
それでも未だ言葉足らずだと思っています。

これじゃ、誰も読んではくれないなぁ…
2020年08月12日 17:34
セルスターズの歌詞も、内田良平氏の原詩も、ムサシという若者が、正義の志を持って国家の悪政に立ち向かい、強大悪辣な権力によって葬り去られたというテーマのようですが、ハチのムサシは良いとしても、太陽を「悪政を働く権力者」に例えている点は、共感出来ないし、意味が解らない。
太陽が、いったいどんな悪事を働いたと言うのか?
太陽は、地球上の全ての生命のエネルギー源であり、悪辣な要素など一点も無い!
ハチのムサシは、太陽に何を挑んだのか?何を改めて欲しかったのか?太陽を打ち負かして、地球上の罪の無い全ての生命体を絶滅させたかったのか?

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